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パネルレフェリーの夢を追いかけて

 「目指せ桜岡!」私がレフェリーを志した頃,職場の机の上に張っていた言葉です。 私がラグビーのレフェリーに目覚め,今日に至るまでを語る時,切っても切れない偉大なる母校「東電学園高等部」そして「科学技術学園高等学校」の先輩であると同時に,日本ラグビー界のパネルレフェリーでもある「桜岡将博」氏です。 桜岡さんは今シーズンも大活躍で「早稲田大学vs明治大学」の主審を担当したレフェリーでもあり次回のワールドカップのレフェリーを目指してしているまさに努力と精進の人です。 そんな桜岡さんとの出会いを語ることで,私が今,情熱を注いでいるラグビーについて語ってみたいと思います。
 桜岡さんとの出会いはラグビーとの出会いでもあり,話は24年前,昭和52年,東電学園高等部のラグビー部に入部した時に溯ります。 私が入部した昭和52年は,科学技術学園高等学校として「高体連への加盟」が認めれた年でもあり東電学園高等部ラグビー部にとっては悲願達成の記念すべき年でありました。高校ラガーマンのあこがれである「聖地花園ラグビー場」で開催される全国大会へ挑戦する道が開かれたのです。 残念ながら花園ラグビー場に東電学園と科学技術学園高等学校の名前を刻むことは未だ実現されていませんが,普通の高校生と同じ大きな目標と夢を持つ環境が,多くの先輩達の長年の努力により実ったのでした。 
 監督であった佐野康雄先生の指導の基,ラグビーを学んだわけですが,2歳年上の桜岡さんは3年生で,ラグビー部のバイスキャプテンをしていました。 あの頃から桜岡さんには他の先輩方とは一味違ったオーラみたいなものがありました。熊谷の航空自衛隊四術高校で開催された「科学技術学園大会」でのことです。試合が終えた夜,マネージャーとユニホームの洗濯をしていた時のことですが,突然,桜岡さんが現れ「俺がお世話になったジャージぐらいは自分で洗濯するからいいよ」と言ってくれたのです。この時の一言が何故か心に新鮮に響き,将来目標とする先輩だと感じたことを今でも鮮明に覚えています。 
 私の現役時代の履歴は誇れるものは何もありません。高校時代「科学技術学園高等学校」として,関東大会に2度出場させていただいた程度で,卒業後は「百草クラブ」といったOBのクラブチームに所属し,週末のゲームを楽しんでいました。しかしながら,フランカーといった激しいコンタクトプレーが中心のポジションながら,無茶なタックルによる怪我に悩まされ,いつしか興味は他のスポーツへと移っていました。 
 マラソンやトライアスロンに挑戦したり,のらくろ岳友会という山岳会に所属し,冬山や岩登りのまねごともしていました。冬の北アルプスで大切な4人の仲間を失い,捜索活動に参加したこともあります。その時の捜索活動については,宝島書房から発刊された泉康子さん(科学技術学園職員)著作の「いまだ下山せず」で紹介されていますが,ラグビーの世界を離れた「空白の時代」の忘れられない想い出の一駒でもあります。 
 実は幼少の頃は柔道もやっていて「講道館の弐段」を持っています。得意技はもちろん「諸手刈り(ラグビーのタックル)」です。数いるラグビーのレフェリーの中でも,柔道の黒帯を持っているレフェリーは珍しいと自負しています。 
さて,本題に入りますが,先に述べたようにレフェリーを始めたのは現役を退いてから,空白期間があったこともあり,初めて笛を吹いたのは33歳の秋でした。 その頃,桜岡さんは関東協会のトップレフリーとして秩父宮ラグビー場で開催される有料試合等で活躍しだした頃でした。若手レフリーの育成にも当たられていて,職場も一緒(本店配電部所属)になったことからも言葉では言い表せない指導をしていただきました。おかげさまで,下記のような恵まれたレフェリーライフを築くことができたと言えます。
平成7年4月東京都協会公認(C級)34歳
平成9年8月関東協会公認(B級)36歳
平成13年8月関東協会公認(A2級)40歳

 本店勤務といった厳しい環境の中,趣味であるラグビーのレフェリーとして,比較的短時間に全国大会レベルの試合を担当できるまでに成長できたのも,ひとえにクライミングルートを引いてくれた桜岡さんのご指導と職場の上司や同僚のみなさんの理解と暖かい支援があったからに他ならないと感謝しています。
 一昨年,A2(関東協会トップレフェリー)に昇格させていただいたことで,「桜のエンブレム」を付けて,現役時代は踏むことが出来なかった聖地「花園ラグビー場」で高校全国大会のレフリーを経験することができました。
 また,東日本クラブ選手権決勝戦では秩父宮で初の有料試合の大役を任せていただきました。大学選手権や全国社会人大会のタッチジャッチも数多く経験させていただき,私のラグビー観は大きく変わったといえます。と同時に「夢は実現するためにみるもの」ということを確信しました。 これはレフェリーである私だけにいえることでなく「聖地・花園ラグビー場のグランド」に立つことができた高校ラガーメン達にも同じことがいえると思います。
 キックオフ前の彼らは,高校ラガーマンの「トップチーム」そして「トッププレイヤー」として光輝いています。特に目の輝きは素晴らしいものがあります。だからこそ,彼らのプレーの一つ一つに感動と涙があるのだということを,気迫ある彼らのプレーを通じて,また彼らと共に「同じフィールド」に立つことで痛感することができました。 16歳から18歳の高校生です。肉体的には他の高校生と変わりない私の目の前に立つ彼らの違いは「努力の差」以外にありません。他のチームよりも練習と努力を重ねた成果が,チームメイトを信じ,自分自身を信じることが出来る唯一の担保となり,その気持ちがチームとして一丸となった時,初めて「勝利の喜びを噛みしめることができる」ということを,花園ラグビー場で戦い,成長をし続ける彼らに教えてもらいました。 そして,応援団と共に素晴らしい母校愛を持って,花園のグランドで戦っていることを,ノーサイドの笛を吹いた時に痛感することができました。彼らと共に涙を流せるのもレフェリーの特権であると自負しています。
 また,A2に昇格して初めて,トップレフリーを維持し続ける桜岡さんの偉大さを知りました。他人と同じ事をしていたのでは何もしないのと同じということを実践をもって教えて頂きました。
 プレイヤーに失礼のない走力と瞬時の判断力を維持するためにも,また,年齢といった目の前のプレッシャーに打ち勝つためにも,日々のトレーニングを怠らず,師匠である桜岡さんを目標に,これからも精進していきたいと思っています。そして「目標を持ち続けられることの幸せ」を私は知ることができたと思っています。
 これからも,ちょっと遅咲きのレフェリーですが日々のトレーニングを怠らず「31番目のプレイヤー」として、ラグビーという素晴らしいスポーツを満喫していきたいと思っています。 そして,更なる飛躍を目指し1歩でも桜岡さんを始めとする数少ないパネルレフェリーに近づけられるよう,夢を追いかけて行きたいと思います。
いつまでも若い人達と夢を共有して行くために!
名 前 谷口弘(たにぐち・ひろし)
誕 生 1961年生 (41歳)
経 歴 1980年東電学園高等部卒業
1981年科学技術学園卒業
活 動 ■レフェリー(ファイナルマッチ関係)
・東日本クラブ選手権決勝戦(2000年〜2002年)3年連続
・全国クラブ選手権準決勝戦(2003年1月)
・関東学生クラブ選手権決勝戦(1999年)
・ニュージーランド大使杯(1998年〜2000年)3年連続
・全国高校ラグビー選手権(2001年,2002年)
・第16回関東大学リーグセブンス決勝戦(2002年)
■タッチジャッチ
・全国大学ラグビー選手権
・全国社会人ラグビー大会
・全国クラブ選手権決勝戦他

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